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由良 (軽巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
由良 (軽巡洋艦)[ゆら]

由良(ゆら)は、日本海軍軽巡洋艦(二等巡洋艦)〔#ポケット海軍年鑑(1935)p.33『ニ等巡洋艦"由良 ゆら" 由良は昭和10年度は第二潜水戰隊に編入されその旗艦である。二等巡洋艦は俗に軽巡とも云はれ、ロンドン條約以來るは亦乙級巡洋艦と称せられるやうになつた。即ち排水量1,850噸以上10,000噸以下の艦で備砲口徑が5.1吋を超え6.1吋(15.5糎)以下のものがこれである。この艦は全長152.40米、幅は14.40米で平均吃水4.84米。この寫眞で目新しいのは前部の飛行機滑走臺を撤去してこれを後部の5、6番14糎砲の中間にカタパルトとして移してゐることゝ、後檣を三脚式に改造されてゐる點である。煙突の白線は同型艦の多い戰隊では見分がつきがたいためそれを補ふためのマークである。』〕。二等巡洋艦長良型の4番艦である〔#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2『巡洋艦|二等|長良型|長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈』〕。その艦名は、若狭湾に注ぐ由良川に因んで名付けられた〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.134『川名に採る。由良川は丹後国にあり、音無瀬川一名大雲川又は福知川の下流にして其の海口を由良港とす』〕。太平洋戦争で喪失した日本軍最初の軽巡洋艦となった。
== 艦歴 ==
由良は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として建造が決まる。姉妹艦は長良、五十鈴、名取、鬼怒、阿武隈であった〔#ポケット海軍年鑑(1937)p.38『二等巡洋艦"由良 ゆら" 全要目 二等巡洋艦は俗に軽巡ともいはれ、ロンドン條約は備砲口徑15.5糎砲以下をもつて一括して乙級巡洋艦と称した。わが二等巡洋艦の名称は是等の條約とは初めから關係のないもので、その任務はまた一様にいふことが許さぬが、乙級巡洋艦も二等巡洋艦の俗称として残ることだらう。長さは152.40米、幅は14.40米、平均吃水4.84米で同型艦に"長良ながら" "五十鈴いすゞ" "名取なとり" "鬼怒きぬ" "阿武隈あぶくま"の4艦がある。カタパルトは5、6番砲塔間に、後檣は三脚にかへられた。』〕。ただし細かい相違点はあるものの、大まかな外観から各艦を区別するのは難しい〔#ポケット海軍年鑑(1935)p.38『ニ等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目 由良又は鬼怒などの軽巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ軽快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』〕。
1920年(大正9年)3月26日、建造予定の巡洋戦艦2隻、二等巡洋艦1隻に、それぞれ天城型巡洋戦艦高雄と愛宕、二等巡洋艦由良の艦名が与えられた〔#大正9年達3月p.19『達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋戦艦二隻及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通命名セラル 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)』〕。同日附で高雄、愛宕、由良は艦艇類別等級表に登録された〔#大正9年達3月p.21『達第三十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄赤城ノ次ニ「、高雄、愛宕ヲ、巡洋艦二等ノ欄名取ノ次ニ「、由良」ヲ加フ』〕。
由良は1921年(大正10年)5月21日佐世保工廠にて起工、翌日には竜骨を据え付ける〔#軍艦由良製造一件p.16『工事名称/一.起工「キール」据付/着手年月/10.5.22』〕。1922年(大正11年)2月15日午前10時30分に進水〔#軍艦由良製造一件pp.11-12〕。1923年(大正12年)3月20日に竣工した〔#軍艦由良製造一件p.39『発信者:佐世保工廠/受信者:艦政本部 由良本月二十日受領ヲ了セリ』〕〔#日本軍艦集2600年版p.34『ニ等巡洋艦 由良(ゆら) 基準排水上5,170噸、長さ152,4米、幅14,4米、平均吃水484米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正10年5月21日、進水大正11年2月15日、竣工大正12年3月20日、建造所佐世保海軍工廠-名取と同型。なほこれらの同型艦として鬼怒(大正11年11月10日竣工)がある。』〕。
竣工から5ヶ月後の9月1日関東大震災が発生、首都圏は甚大な被害を受けた。戦艦長門以下連合艦隊各艦は東京湾へ急派される。由良は品川方面に配置され、霧島比叡北上名取木曾夕張等と救援活動を行った〔#震災救護日報(6)p.1『地.救護関係艦船ノ行動 救護用物資ノ輸送、陸揚、交通通信等ノ諸作業及警備ニ従事時中ノ艦船左ノ如シ (一)品川方面(軍艦)霧島比叡北上由良名取木曾夕張(特務艦)富士石廊(駆逐艦)十一席(以下略)』〕。
1926年(昭和元年)12月、日本海軍の軽巡洋艦として初めて水上偵察機を搭載している。
1927年(昭和2年)8月24日、由良は島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習(第八回基本演習)に甲軍所属の第六戦隊(由良、龍田)として参加した〔#神通蕨那珂葦衝突報告(6)p.47『(二)第八回基本演習(略)竜田、由良ヲ以テ第六戦隊ヲ編成シ第一水雷戦隊司令官之ヲ指揮ス』〕。加藤寛治連合艦隊司令長官は甲部隊指揮官として戦艦「長門」に乗艦。甲軍は第一戦隊(長門陸奥)、第三戦隊(鬼怒阿武隈)、第四戦隊(金剛比叡)、第一戦隊第2小隊(伊勢日向)、第六戦隊(''由良''、龍田)という単縦陣で航行しており、その右舷後方から乙軍《仮想敵》の第五戦隊(加古古鷹神通那珂《皇族武官伏見宮博義王乗艦中〔#神通蕨那珂葦衝突報告(5)p.8『五.那珂御乗船中ノ博義王殿下ニハ御無事ニアラセラル』〕》および第二水雷戦隊(旗艦夕張)が接近していた〔#神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』〕。戦艦伊勢、日向および由良は仮想敵(乙軍)の第五戦隊第2小隊(神通、那珂)に対し探照灯を照射、このため神通、那珂は敵艦隊(甲軍)に対する襲撃を諦めて右に転舵した〔#神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』〕〔#神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.9-10『伊勢-照射砲撃 由良-照射砲撃』〕。
すると軽巡2隻は後続していた味方の乙軍(第五戦隊第1小隊《加古、古鷹》および第26駆逐隊4隻、第27駆逐隊4隻)に突っ込んだ〔#神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.43『…當時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』〕。神通と第27駆逐隊2番艦が衝突(蕨は沈没)、那珂と同駆逐隊3番艦が衝突、両艦ともに大破する。由良は各艦と協力して蕨の生存者の救援をおこなった〔#神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢、加古、古鷹、鬼怒、阿武隈、由良、龍田、第二十六、第二十七駆逐隊』〕。のちに水城圭次神通艦長は自決。一連の事故を美保関事件という。
1929年(昭和4年)4月、軽巡五十鈴において射出実験に成功した萱場式艦発促進装置が由良に移設され、約4年間の長期試験が行われたが実用化に至らず、火薬式射出機の実用化に伴い撤去されている。萱場式艦発促進装置はスプリングの力により加速をつける方式の射出機であった。
1931年(昭和6年)12月、第一艦隊・第三戦隊(司令官堀悌吉少将)に編入された。翌1932年(昭和7年)1月、軽巡大井、夕張と共に第一次上海事変で揚子江警備に出動し、3月末まで活動した。
1933年(昭和8年)7月、呉式二号三型射出機が5番主砲と6番主砲の間に装備され、従来の滑走台は廃止された。滑走台跡に、他の長良型各艦とは異なり13mm連装機銃2基が装備されたとされている。同年11月、第二艦隊・第二潜水戦隊(司令官和波豊一少将)の旗艦となった。
1934年(昭和9年)10月12日、『昭和九年特別大演習第三期對抗演習』が実施される。12日夜間演習に参加した由良は第一戦隊(金剛霧島扶桑日向)の後衛として行動したが、照射攻撃の後に日向を見失ってしまう〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.8『10月12日1850金剛ヨリ電令ニ依リ第一戦隊ノ後衛トナリ(略)第1戦隊4番艦(日向)ノ左斜後視界限度(6000米乃至8000米)附近ヲ燈火戦闘管制トナシ警戒ヲ厳ニシ航行中1945右前方ニ反航スル水雷艇初雁ヲ認メ之ヲ照射砲撃ノ為転舵シ遂ニ味方主力部隊ヲ見失フ』〕。晴夜であったが、煙幕の残部があって視界は不良だった〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.7『二.触衝前後ニ於ケル風向風速天候海上ノ模様其ノ他四圍ノ状況|(一)触衝前後ニ於ケル風向北風速12米/秒 (二)天候海上ノ模様 晴天ノ晴夜ナリシモ海上荒長濤アリ時々飛沫艦橋ヲ襲フ (三)其ノ他四圍ノ情況 海上稍濛気アリ且煤煙及煙幕残部ノ為メ味方主力部隊附近視界不良』〕。また台風の影響が残っており、各艦は操艦に苦労していた〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.23『当時風向北乃至北東風力12.3米海上前日来ノ颱風ノ影響ト覚シキ北東方ヨリスル長大濤ニ依リ動揺相当大ニシテ操舵亦意ノ如クナラザリシモノアリシナラン為之触衝回避ニ対スル最前ノ方法ヲ講ジ概ネ所期ノ目的ヲ達シタルモ…』〕。
単艦で主力部隊を捜索中の20時30分、由良は右舷方向から出現した第八戦隊の軽巡夕張と衝突事故を起こす〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.2『軍艦由良触衝事件報告 由良艦長海軍大佐春日篤 軍艦由良ハ昭和九年十月十二日青軍第二潜水戦隊旗艦トシテ第三期対抗演習ニ参加中同日2029.5北緯26度18分東経129度22分ノ海面ニ於テ赤軍第八戦隊ノ一艦夕張ト触衝セリ』〕〔#軍艦由良触衝事件報告(1)pp.14-15『附圖第一、第二』〕。夕張は軽巡名取、長良に撃沈判定を宣告した後〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.30『1958想定 三缶室ニ敵弾命中出シ得ル最大速力28節|2003夕張艦長/本艦 長良名取ト交戦シ両艦ヲ撃沈ス』〕、機関故障を想定して中軸停止状態(2軸運転)であり、これが回避行動に何らかの影響を与えたと見られる〔#触衝当時の状況に関する件p.4『但シ触衝ノ直前想定ニ依リ中軸ノ運転ヲ停止スルニ至リタルコトハ操舵ノ効果ヲ減ジ且後進全速ニ對スル中軸ノ操作ヲ遅延セシメ前進惰力ノ減退亦従ッテ充分ナラザルヲ以テ衝突回避上多少影響シタルベシ』〕。
由良に浸水被害はなく、艦の損傷は軽微であった〔#軍艦由良触衝事件報告(1)p.6『損害ノ状況|短艇甲板面右舷168番「ビーム」ニ於テ幅2米深サ0.7米ノ凹ミヲ生ジ附近ノ「フレーム」一本舷側ニ近キ處ニテ切損魚雷「ダビット」1及外舷「スタンション」3本屈曲ス。凹ミノ前方約5米後方約8米上甲板外側ニ擦過ノ跡アリ』〕。夕張は艦首を損傷して若干の浸水被害があった〔#軍艦由良触衝事件報告(2)pp.8-14『附圖(夕張艦首断面図及び損傷状態スケッチ)』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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